山名正二著 『日露戦争秘史 満洲義軍』(31)-2  ◆再掲載

※ 過去に本ブログに投稿した分を再掲載。

第31回は2005-10-08 21:41に掲載。

日露戦争秘史
満 洲 義 軍

山名正二 著
昭和17年9月20日
月刊満洲社東京出版部発行


  〔三〕 福島熊次郎、楊二虎を投げる 続き
 この事件以後清国人は日本人の武勇を恐れた。流石の楊二虎さえ福島には頭が上がらず、その柔道に感服したばかりでなく、福島の豪快洒脱な気性には心底から感服してしまった。

    *    *    *

 右翼第一隊の隊長ははじめ萱野長知であったが、八月四日古川清が隊長となった。

 楊二虎は兇暴な男で、その部下にも悪いやつが居り、右翼第一隊はとかくの悪評があった。それでその年の秋には楊二虎及びその部下の不良分子を淘汰して、楊の一の乾分王飛卿を哨長(日本人幹部の下にいる清国人副隊長)として右翼第一隊の粛正をやった。楊それ自身は乱暴者であったが、彼の義軍入りが募兵に役立った点に於いて意義がある。

 戦後張作霖が勢力を得るに及んで、楊二虎は討伐をうけ、明治四十二年大東溝から逃げ出して海路を浦塩へ渡り、ウスリーから北満へ入った。そして松花江の佳木斯対岸から富錦・同江の下流一帯に広大な縄張りをつくった。

 彼は此処で罌粟けしの栽培をはじめて阿片を製造し、また石炭をも掘り出した。これが鶴岡炭坑である。彼は兇暴であるが仁義を知る男で、大正六年頃、奉天の鶴岡のところへ手紙をよこして「鶴大人ハオターレン、どうか私の縄張りへ来て下さい。一生大人をお世話しますから」
と言ったところ、鶴岡から
「有難いけれども、俺はお前達の親分になる気はない」
といわれたことがあるという。この楊二虎は先年同江で病歿した。

 王飛卿は義軍解散後、堀米・神吉等に率いられて興京新勝営に入り、管帯(営長)馬連瑞の下に幫帯(副営長)をやった。新勝営解散後は部下三―四十名を連れて公主嶺警務署長鶴岡永太郎の保護をうけにやって来た。鶴岡は彼を署の嘱託とし、孟家屯の団練長にさせてやった(後の第二十一章第五節記載)。この王は先年吉林で病歿した。

* 2022年6月4日 (6月9日掲載分に続く)わが家の庭から近くの電柱へと飛び去ったカチガラス(カササギ) 今度は上の1羽の頭が見えないが、下の1羽のクチバシを開いているところが見える。おそらくさえずっている。電柱に巣をつくらないかどうか、要注意のようだ。

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