福岡の西南戦争★『福岡歴史探検 ①近世福岡』から(13)

『福岡歴史探検 ①近世福岡』(福岡地方史研究会編、海鳥社発行、1991年6月1日第1刷、1992年11月30日第2刷) 共著 石瀧執筆部分のみを抜粋して掲載する。

 『福岡歴史探検 ①近世福岡』からの抄録にあたり、図版は省略した。



福岡の西南戦争

    申し渡し
  福岡県筑前国那珂郡船町士族  武部小四郎
  そのほう儀、朝憲(ちょうけん)をはばからず、党与を募り、兵器を弄(ろう)し、官兵に抗し、逆意をたくましくする科(とが)により、除族の上斬罪申しつける。
   明治十年五月三日 九州臨時裁判所

 士族反乱「福岡の変」の指導者の一人、武部(たけべ)小四郎が捕縛されたのは、五月二日のことである。裁判は、中央から派遣された五等判事小畑美稲、一級判事補香川景信の二人が担当し、即決で死刑が宣告された。武部は時に三〇年一一カ月(満年齢)であった。

 すでに、五月一日には、武部とともに大隊長を務めた越智(おち)彦四郎(二六年七カ月)ら四名が死刑判決を受け、その日の内に処刑されている。

 武部小四郎の父は福岡藩大組七〇〇石の建部(たてべ)武彦である。筑前勤王党の有力メンバーであったが、慶応元年(一八六五)の勤王派への弾圧、いわゆる「乙丑(いっちゅう)の獄」の際、切腹を命じられたという人物。福岡の変は、明らかに勤王運動の延長上に位置している。

 武部の口供書(こうきょうしょ)を元に、事件の経過をたどってみよう。

 明治八年春、武部と越智は大阪に板垣退助を訪ね、初めての全国政党となった愛国社の結成に参加した。板垣の民権拡張論に共鳴した武部・越智は、福岡に帰って同志を募り、同年八月矯志社、強忍社、堅志社などが発足した。どれも強い反政府意識に彩られていた。

 明治一〇年二月、鹿児島から帰った内海重男が西郷隆盛決起の報を福岡にもたらした。

 三月一九日、穴観音(あながんのん)(福岡市南区寺塚)に密かに同志が集結、三月二七日夜の決起を決め、参加人員は八〇〇名と予定して、越智・武部を大隊長に選出した。

 しかし、武部の心は揺れた。熊本の戦線は膠着(こうちゃく)し、西郷軍ははかばかしい戦果を挙げないまま、いたずらに日を過ごしている。一方、征討軍は博多湾に続々上陸し、陸路、熊本をめざした。福岡は官軍で満ちていた。無謀な決起に勝敗は明らかだ。武部には武器、弾薬に不足する決起側の運命が手に取るようにみえた。

 二六日、武部の自宅を訪れた強硬論者越智と時期尚早論の武部との間で意見が割れた。翌日、今度は武部が越智を訪れ、自重を促した。しかし、ついに武部が折れた。ゴー・サインが出されたのであった。

 いくつかの集合地点から、二八日午前二時を期して、福岡城、県庁などを一斉に襲撃する手はずになっていた。武部の率いる部隊は、那珂郡住吉村住吉神社に集結した。しかし、連絡の不徹底もあって、三〇〇人の予定がわずか一五、六名しかきていない。実は、県庁では蜂起の動きを事前にキャッチしていて、集合場所に向かう途中捕縛された者だけで、五〇余名に達していた。武部は全員に撤退を命じ、自身は再起を期して、一カ月以上にわたって所々に潜伏した。多くの友人が進んで彼をかくまっている。

 福岡城襲撃に失敗した越智らは、野芥(のけ)・金武(かなたけ)方面で官軍と激しい戦闘を交え、多くの戦死者を出しながら、西郷軍との合流をめざして鳥栖、小郡(おごおり)、秋月へと転戦したが、四月五日越智が夜須(やす)郡椎木(しいのき)村で捕縛されたことで、ついに福岡の変は全てが終息した。

 事件の結果、四八八名が処分を受けた。内、斬罪五名、懲役刑は四二三名に及んだ。他に戦死五四名、獄死四三名。刑死の五名を加えると、計一〇二名が犠牲になった。福岡の変は、その敗北によって、向陽社、玄洋社など、のちの筑前民権運動を生むことになる。

 武部の死は、五月七日の「筑紫新聞」で報じられた。処刑は判決の日の夜だった。刑場に臨んだ武部は、従容自若(しょうようじじゃく)、警吏にそれまでの丁寧な取り扱いを謝し、斬り手にはしばしの猶予を乞うた。形を整え、首を垂れると、武部は「よろしい」と斬り手に声をかけた。その挙措(きょそ)は少しも平常に異ならず、最期の模様は立場を超えて人々の感動を誘ったのである。  (石瀧)

*211102付記 建部のルビ「たけべ」を「たてべ」に改めた。

* 2021年10月30日 駕与丁(かよいちょう)池にて(福岡県糟屋郡粕屋町) 紅葉が進んだ櫨の木と櫨の実

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