執筆者 石井忠・石瀧豊美・河西照勝・後藤瑠美子・野村郁子・福田勉
『福岡を歩く』と『新版 福岡を歩く』からの抄録にあたり、写真・地図は省略した。
▽太閤秀吉や千利休ゆかりの茶の湯の遺跡も
筥崎宮の参道はまっすぐに玄界灘へと向かっている。まるで海の向こうからやってくる人を迎えるかのように。
波打ち際はお潮井取りの行事で知られる。「てぼ」と呼ばれる竹かごに海の砂を詰めておき、玄関先につるしておいて、出入りのたびに体にふりかける。古くから災難除けになると信じられてきた。参道を南へ進み、一の鳥居をくぐると、前方に楼門がそびえている。見上げると醍醐天皇筆と伝えられる「敵國降伏」の額。筥崎宮は元寇の古戦場の一つだが、実はもっと以前から海の向こうからやってくる侵入者ににらみをきかす役割を担わされていたのである。黒田長政が建てた一の鳥居も、小早川隆景が再建した楼門も、そして拝殿も本殿も、重要文化財である。
境内に箱崎の名の起こりとなった筥松がある。糟屋郡宇美八幡宮は応神天皇の生誕地と伝えられているが、神功皇后が宇美で出産したとき、その胞衣(えな)を筥に納めてこの地に埋めたことによるというのだ。その目印とした松が筥松である。これは伝説には違いないが、皇族の胞衣を山林に埋め、目印に植樹するという習慣そのものは確かにあったようだ。それを下敷きにした伝説である。接尾辞「崎」は細長く突き出した地形を言う。箱崎は博多・堅粕方面から多々良川河口部へと砂が堆積して砂州を形成していたことからきた地名である。
八幡神(応神天皇)と神功皇后、玉依姫命(たまよりひめのみこと)(宝満神、神武天皇の母)を祭る筥崎宮は、しかし、当初からここに置かれていたわけではない。もとは穂波郡大分(だいぶ)宮(嘉穂郡筑穂町)にあったのだが、大宰府の官人が参詣したり、放生(ほうじょう)の行事をするのに不便などの理由から、神託によって、延長元年(九二三)この地に移されたと言われている。大きな背景としては、海外からの脅威に、八幡神の威力を借りようとしたということができる。
天正一四年(一五八六)から翌一五年にかけて、秀吉による九州征伐が行われた時、箱崎は歴史の表舞台で脚光を浴びることになる。島津氏が降伏した後、一五年六月のことだが、秀吉は箱崎に滞在しているのである。
箱崎に着いたのが六月四日。一〇日にはポルトガル人宣教師と共にポルトガル船で博多の見分に向かう。何の異変も予想できなかったのだが、一九日、突如として、キリシタン武士二名を処刑し、博多居住のバテレンには国外退去を求めるのである。織田信長以来の布教容認の姿勢を改め、キリシタン禁止令を発令したのだった。秀吉は箱崎の松原で博多商人神屋宗湛・島井宗室らと茶会を催したりもしている。
江戸時代、箱崎は箱崎村と箱崎浦、それに社領とに別れていた。村は郡奉行の支配区域、浦は浦奉行の支配区域、社領は筥崎宮が藩主から拝領した領地である。唐津街道は、香椎から多々良大橋を渡ると、原田(はらだ)へと至り、箱崎を経て博多へと通じている。箱崎は参勤交代の行列が通る宿場町でもあったから、藩主黒田家の別荘という意味の御茶屋も置かれていた。
幕末、ここに長崎のグラバーが招待されたことがある(『見聞略記』)。慶応二年(一八六六)一二月のこと。貴賓を迎える箱崎御茶屋では、外国人に合わせて鴨居を高くし、椅子の代わりに禅僧の座る曲彔(きょくろく)を寺からかき集めるなど準備がたいへんだった。長崎から料理人を呼び寄せ二五菜の料理でもてなしたというから、洋食フルコースと言ったところだろうか。福岡の洋食は箱崎で始まった? (石瀧)
〔メモ〕
箱崎の近代は九州大学と共に歩んだ歴史である。医科大学(現博多区馬出(まいだし))と工科大学(東区箱崎)からなる九州帝国大学の発足は明治四三年。箱崎の名高い蔬菜地帯が犠牲になった。箱崎地区には現在、工・理・農の理系、法・文・経・教育の文系学部が置かれているが、いずれ糸島半島へと移転する。箱崎はどう生まれ変わるのだろう。
【訂正】53㌻掲載の写真に「筥崎宮の石灯籠(千利休寄進)」とキャプションを付けているが、実は写真とキャプションが一致しない(写真が間違っている)。これまで訂正する機会がなかったので、ここに付記することとした。
千利休寄進の石灯籠についてはこちら ⇒ 筥崎宮境内マップ【重要文化財】<筥崎宮のHP
* 2021年9月26日 駕与丁(かよいちょう)池にて(福岡県糟屋郡粕屋町)
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