皇籍離脱・皇籍復帰と社会的身分(105) ◆かるちゃーひろば

     「メディアウオッチ100」1481号(2021年8月30日 月曜日)
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コロナ禍で書き継いだ大江磯吉ノート
 大江磯吉ははじめ文学史の分野から、つまり島崎藤村『破戒』のモデルとして注目された。これは『破戒』が発表された直後から始まった動きである。そこでは『破戒』の登場人物と大江の生涯が対照され、その履歴が似ている・似ていないという詮索で終わりがちだった。大江は『破戒』を補完するだけの、客体としての意味しか持ち得なかったが、とはいえ私たちが島崎藤村によって、大江磯吉という存在に目を向ける契機を与えられたことは事実である。

 戦後、教育史の分野で、それまで忘れられ埋もれていた、大江磯吉の教師としての生涯が掘り起こされるようになった。実像の探求である。大江の生地や赴任地で、勤務先の学校で、地域の研究者たちが大江研究に無償の情熱を燃やした。大江が地域雑誌に発表した論文が次々に発見されたが、こうなるともう『破戒』のモデルという枠はこなごなに打ち砕かれている。

 また、部落史の分野では、『破戒』のモデルとしてではなく、部落出身の自立した一人の人間として、その生涯に新たな光が当てられた。ただ、どうしても差別された側面が強調されがちなのはやむをえない。差別・被差別という枠組みから自由でありえない。私はいずれとも関係なく、あくまでも「社会的身分」という一点で、その限りにおいて大江磯吉を一つの素材としているに過ぎない。私にとって必要なのは等身大の大江である。

 以前大江についての本を読んだことがあったから、その名前ぐらいは知っていた。今は他に一、二の本に目を通したぐらいで、大江に関する過去の研究を、おおざっぱにながめることしかできていない。それでも、十分に考察されないまま定説化したり、まだ探求されていないことも多く残されているという印象を持っている。どうやら大江は、私たちがぼんやり思い描いている「肖像」には収まりきれない、大きな存在であるらしい。ただ、その生涯はあまりにも短かく、教育学の研究者・実践者としてまとまった著述を残すに至らなかった。大江も才能豊かな夭折者のひとりである。大江磯吉を歴史上の人物としてどう評価すべきか。すべては今後の課題として残されている。

 この論稿を書き始めたのは『文藝春秋』昨年1月号を読んだことがきっかけだった。第1回が昨年3月11日発行の第1289号である。言い換えると、ずっとコロナ禍と併走して書き継いでいた。この1年半の間、福岡県立図書館は休館している期間の方が長かったかもしれない。福岡県の緊急事態措置が明ける9月12日まで休館は続く。その先がどうなるか、まさに予断を許さない。そういう中で、本稿を書くのに国立国会図書館デジタルコレクションやアジア歴史史料センターに助けられている。もしインターネット環境がなければこの原稿を書き継ぐことすらできなかった。窮すれば通ずで、このところ官報や『職員録』を使って原稿を書いてきたが、そのことでむしろ、従来見えなかった大江磯吉の姿をかいまみることができるかもしれない。

『職員録』をたどる(1)
 明治24年4月、高等師範学校を19人中第3番の成績で卒業した大江磯吉(数え年24歳)は、母校長野師範にもどってきた。以下、『職員録』その他から大江の名を拾ってみた。大江は磯吉・礒吉の2通りの表記で記録されている。江戸時代には音が同じならどの文字を使うかには拘泥していなかった(平野次郞と平野二郎……平野国臣の場合)。大江の2通りの表記もその名残と見ることができる。デジタルコレクションの画像をパソコン画面で読み取ろうとすると、いくら目をこらしても解像度の関係で磯と礒の区別ができない。ここではすべてを磯吉で通している。

 デジタルコレクションの『職員録』は明治19年から始まる。庁府県(現在の都道府県)を掲載するのは『職員録』(乙)である。以下、漢数字を算用数字に改めて表記する。

・明治19年12月31日現在 長野県尋常師範学校(校長 浅岡一) <出仕 (月12)小平磯吉> 校長と幹事以外の教員はすべて「出仕」。大江は出仕15人中15番目。月俸12円。この時、大江は小平家の養子だった。『職員録』(乙)は明治20年を欠く。

・明治21年3月31日現在 同(校長 兼属 浅岡一) <訓導 (月12)小平磯吉> 校長・教頭以外の教員は教諭・助教諭・幹事・舎監・訓導の区別が生じた。訓導は附属小学校の教員で、大江は3人中2番目。

・明治22年1月10日現在 同(校長 兼属・学務課長 浅岡一) <訓導 (月12)小平磯吉> 明治21年に同じ。

・明治23年1月31日現在 同(校長 兼属・文官普通試験委員 浅岡一) <訓導 (月12)小平磯吉> 訓導7人中2番目。

・明治24年1月31日現在 同(校長 文官普通試験委員 浅岡一) <訓導 (月12)大江磯吉> 23年8月、大江姓に戻る。訓導5人中3番目。

・明治25年1月31日現在 同(校長 文官普通試験委員 浅岡一) <教諭 (月40)大江磯吉> 明治24年4月に高等師範を卒業して着任した大江の名が教諭6人中6番目に見える。これにともない、附属小学校教員である訓導(=師範学校卒業生)から師範学校教員である教諭(=高等師範学校卒業生)へと地位が変更された。

 この間の事情を東栄蔵『大江磯吉とその時代』の年譜から説明すると、明治19年7月、長野師範を卒業した大江は9月2日、平野学校に訓導(月俸11円)として赴任した。ところが現地で差別、排斥されて同9日、母校に出仕(月俸12円)として戻されたのである。当然学校側は説得に当たったはずだから、辞令を撤回したのは、学校の正常な運営ができない程の激しい反発だったと予想される。それとともにわずか7日後に昇給するという、すなわち栄転の形を取った辞令でもあった。何ら責任のない大江の履歴にキズをつけないための配慮だろう。明治20年5月には附属小学校訓導(月俸12円)となるが、明治21年『職員録』にそれが反映している。

 明治21年4月、高等師範学校に入学。その時、尋常師範学校長浅岡一の配慮で附属小学校訓導の身分はそのままとされた。それで月俸12円のまま、明治24年まで『職員録』に掲載され続ける。大江はこの間、尋常師範学校訓導と高等師範学校生徒の二重の身分を持っていた。異例に違いないが、『職員録』はそれを証明している。

 師範学校長浅岡一は明治22年には学務課長を兼ねるほどの実力者だが、それだけでこの異例の措置を説明できるかどうか、なお考える必要がありそうだ。

* 2021年9月4日 駕与丁(かよいちょう)池にて(福岡県糟屋郡粕屋町) 紅葉が始まった櫨と櫨の実(2)

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