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福本日南が提出した「養老法案」
新型コロナウイルス感染拡大・医療体制逼迫を理由に、5月31日に期限を迎えた福岡県の緊急事態宣言は6月20日まで延長された。そのあおりで福岡県立図書館も臨時休館が続く。私が4月16日前後に借り出した6冊の本は、本来最大でも4週間の返却期限が、次の開館まで延びるので大助かりだが(―いずれは投稿という成果に結びつく)、新たな本の借り出しや調べ物はできなくなった。インターネットを活用しての原稿執筆が工夫のしどころだ。ネット社会のもとでのパンデミックという特別な事情は、後々の大きな研究テーマとなるだろう。知的集積や拡散、創造という分野で、パンデミックはどのような未来をもたらすのか。
『労働政策レポート』第7巻(2010年3月)に掲載された濱口桂一郎「労働市場のセーフティネット」はインターネットで公開されている。濱口氏の視角は生活保護制度を労働市場のセーフティネットとして捉える(まえがき)という、まさに緊急事態宣言のもとで緊要な意義を持つテーマだが、ここでは「養老法案」への言及に着目する。大正元年(明治45年)衆議院提出の養老法案は濱口論文の「第3部 公的扶助制度の展開/2 救貧諸法案」の(5)で取り上げる。
「一方高齢者に向けた特別の法律として、1912年3月、立憲国民党の福本誠議員より養老法案が提出されました。」とし、その内容を「帝国臣民ニシテ年齢満七十歳ニ達シ無資産無収入ニシテ且保護者ナキ者ニハ一日ニ養老金十銭ヲ給与ス」と要約する。この法案は、70歳以上で無資産無収入の者は「普通ノ考カラ云ヘバ其原因ハ其人間ノ過失ニアル」という反対によって成立を阻まれた。
福本議員が「貧民ノ親族ハ概ネ貧民ナリ何ノ余力アリテカ族類窮老ノ扶持ニ及バムヤ…窮老者ノ餓死自殺日ニ相次ケル所以ナリ」、つまり餓死・自殺する人を眼前にすれば、国家として困窮した国民を救うべきではないか、と提起したのに対し、反対者は「それはあらかじめわかっていたことで、それに対応しなかったのだから、自己責任でしょ」という立場に固執したことになろう。当事者の努力不足が結果を招いたとする自己責任の考え方は、社会進化論の裏面に張り付いているもので、激烈な競争を勝ち抜いて社会的に成功し議席を得た、当時の議員たちが社会進化論の枠を超えられないのも、むしろ当然かもしれない。ただ濱口氏が見ていない点がある。
第一、福本誠が徳富蘇峰に比肩される言論人・福本日南であること。『元禄快挙録』で一世を風靡した大ベストセラー作家でもあった。いわゆる1年生議員だが、ネームバリューは大きく影響力もあったのだ。
第二、日南は司法省法学校の出身で、フランス法とフランス語を身につけていた。ただし賄い騒動によって後の総理大臣原敬らと共に退学処分となった。日南がフランス仕込みの平等思想を持っていたことは、部落問題への接近などからもうかがわれる(石瀧「南進北鎖の夢」西日本新聞1998年11月に9回連載)。
議会での無理解よりも福本日南の先駆性にこそ注目すべきではなかろうか。日南は明治41(1908)年の「エミール・ゾラ」(九州日報)に「そもそも、ユゴーの人道主義、これわが心のゆく所」と書いていた。この年、日南は第10回総選挙で当選(福岡県郡部)、大正元年6月、東京神田淡路町多賀羅亭でのルソー誕生200年記念晩餐会に出席し、青年会館での記念講演会で演説した。代議士は1期のみで、第11回総選挙では長崎県対馬選挙区から出て落選した。
国民の命と国家の任務
養老法案を真正面から論じたものに〈明治末・大正初期の「生存権」思想―「養老法」案をめぐって―〉(田中和男、1982年、同志社大学学術リポジトリ)がある。
ここに内務次官床次竹二郎の反対意見が記録されている。「政府なり公費なりに厄介になるような事がないやうにと云ふ精神」を養うのが重要である、と。最近よく聞く自助・共助・公助という論法で言えば、公助の否定ということになろうか。
田中氏は福本日南が〈老人を保護する「責任」がある国家の役割〉について、「国家なるものは国民の生命を保護すると云ふのが、国家の本旨であらうと思う」と述べていることに注意を促す。ここでの国民は、与党支持者かどうかなど、あれこれの条件を付してふるいにかけられたものでないのは言うまでもなかろう。日本政府や与党や国会議員一般にその自覚があるのかどうかすら、現在では疑われる。
〈菅義偉首相は1日の参院厚生労働委員会で、東京五輪・パラリンピックに関し、「国民の命と健康を守るのは私の責務だ。五輪を優先させることはない」と強調した。〉(6月1日、時事ドットコム)
国民の命は現に新型コロナウイルスによって日々失われてきたし、これからも失われるだろう。誰もが次は私かもしれないと薄々は感じ取っていることが、ワクチン接種へのなだれ現象に見てとれる。
死者の累計は1万3548人に及んでいる(6月6日付西日本新聞朝刊)。この膨大な死者を抜きに、国民の命が抽象的に論じられるのが不思議でならない。現実はすでに「守られていない」のだ。病室の廊下にまで患者が寝かされている外国のニュースのような風景はないし、発表される死者は具体的な名前も年齢も性別も肩書きも住所も、もちろん個別の人生すらもない、単なる数字に変換されてしまう。具体的な人の死という実感はますます私たちの目から遠ざかる。外国ニュースでは遠くまで墓穴が並んでいたり、墓標が縦横に整然と立ち並ぶ風景を写し出すのに、日本ではすべてシステマチックに、巧妙に隠されてしまう。
田中氏はなおも日南の発言を取り上げる。
〈「窮老の良民」でありながら「其の生命を保たざる者」が数多存在しているとして、当時の七〇才以上の老人の自殺者が千人近い事実をあげている。彼にとって、このような事態は国家がその「任務を尽して居らぬ」ことであり「国家の大欠点」であった。〉
【欄外付記】 1年前の5月21日にブログ「イッシー閑読閑語」をリニューアル。以降、毎日投稿を続けている。第1回のワクチン接種は6月14日、福岡市のかかりつけ医と決まった。集団接種ではないので、高齢者同士による予約競争に加わらなくて済んだのは幸いだった。それにしても針小棒大、善意のかたまりのテレビにあおられているのでは、という疑いも残る。
* 2021年8月20日 駕与丁(かよいちょう)池にて(福岡県糟屋郡粕屋町)
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