◆◇◆ posted by イッシー閑読閑語 at 2014-11-06 18:28:00 ◆◇◆
「メディアウオッチ100」●316-8号【特別リポート】 2013年4月1日・3日・5日
※「メディアウオッチ100」はメール配信の有料〝電子雑誌〟です。
このブログには私が投稿して、掲載された記事を収録しますが、体裁(表題・見出し・本文)は変更する場合があります。
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本紙311号(3月20日)、丹治則男「『侍』との表現に根拠はあったのか」に、毎日新聞牧太郎氏のコラムの書き換え問題が紹介されていた。気になったので牧氏のブログをのぞいてみた。タイトルは「なぜ『百姓』は使えないのか?」。
牧氏の原稿の「百姓」という表現が、校閲担当者の「差別用語になる可能性がある。注意しなければならない用語。」という指摘で、「農民」に書き換えられたというのだが、これは校閲担当者の不勉強。ついでに牧氏も不勉強なので、どっちもどっちだった。
毎日新聞の校閲には私の本『身分が見える、身分がわかる』(特にその中の「第六章 身分について考える」)および『身分としての百姓、職業としての百姓』を必備の図書として推奨したい(ともにイシタキ人権学研究所直売のみ)。
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両著でふれていることだが、あらためて現行小中学校社会科(歴史)教科書の流れを整理しておこう。変遷を際立たせるために大阪書籍を主に使う。これは定点観測のつもりだが、他の教科書は非論理的で箸にも棒にもかからないところがあるという理由にもよる。できのよかった大阪書籍版は、現在は日本文教出版に版権が移った。結果として日文は2種類の教科書を発行するようになった。
教科書は4年ごとに改訂を繰り返す。以下の表記では検定と出版の年次を区別していないが、検定通過の翌々年に使用を開始し、4年間は連用される。1年ずつずらして、小学校、中学校、高校(低学年)、高校(中学年)と改訂され、また小学校および高校(高学年)にもどる。高校は低学年・中学年・高学年で1年ずつずれる(詳しくは文科省サイト「教科書の検定・採択・使用の周期」)。
この3月、2014年度使用の高校教科書の検定通過が報じられたのは記憶に新しい。これら教科書見本は、場所と期間を限って一般にも公開されている。
▼1985(昭和60)年の小学校社会6年(大阪書籍)
幕府は、農工商の下に、さらに低い身分をおきました。
※「士」は表現の上で暗黙の前提となっていて、士農工商(四民平等の「四民」に相当)の、さらに下に被差別身分がいるとした。
▼2011(平成23)年 同(日本文教出版=旧大阪書籍)
村に住む農民(百姓)や、商人と職人とからなる都市に住む町人…。さらに、農民や町人からも差別された人々…。
※明らかに農民=百姓と考えている。百姓という言葉が忌避されなくなったことに注意。「下」「低い」という言葉も消えた。ただ、農民・町人だけが差別しているかの印象を与える点はよくない。「都市に住む町人」はあいまいで、後でふれるが「城下町に住む」者に限定されねばならない。
▼同(東京書籍)
百姓は、農村や山村、漁村に住み、農業や山仕事、漁業などを営んで…。
※すでに農民=百姓という理解を乗り越えているところがポイント。なぜなら漁民も百姓に含まれているからだ。ただ、想像にお任せしますという感じで、あいまいさは残る。
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今度は中学校教科書である。どんぐりまなこで論理を追いかけてほしい。
▼1986(昭和61)年の中学校社会・歴史(大阪書籍…以下同)
農工商の下に「えた」「ひにん」身分
※私たちにすり込まれている「士農工商・えた・ひにん」の図式である。今は完全に否定されている。その理由を3つ上げれば、第1に江戸時代の史料にこの表現が出てこないこと、第2に士農工商は中国の書籍から学んだ言葉で、日本社会にはあてはまらないことによる。士農工商が消えたから「四民平等」を載せない教科書も現れた(行き過ぎた反応で残念に思う)。第3に序列(上から下へと順番に並んでいる)としてとらえることで、上は豊かな暮らし、下は貧しい暮らしという固定観念を植え付けるが、後で述べるようにそれは史実に反する。
中学校教科書では、穢多(=けがれが多い)と非人(=人にあらず)という漢字表記を避けてひらがなにしている。これがよいかどうかは判断がむずかしい。漢字の意味にこだわるなら、卑弥呼(卑という字)や邪馬台国(邪という字)はどうなのか、という反論を予想しなければならない。これは世界史で言えば匈奴(匈の構成要素の〈凶〉と奴)、鮮卑(卑)などにも及ぶ。
▼1992(平成4)年
農民・町人の下に、「えた」や「ひにん」などの身分
※往々にして「えたひにん」はひとつらなりの言葉として使われ、それ自体を一つの言葉として誤解していることがある。前の版のようにカッコで区別するだけでは音としては連なってしまう。それで間に「や」を入れたのである。非人は乞食(私が育った宮崎県では勧進と言っていた…職業としては乞食あるいは勧進、身分としては非人、とイメージすればよい)を指し、穢多(地域によって長吏・皮多・藤内・茶筅…などさまざまな呼称がある)と区別された。また穢多と非人以外にもさまざまな身分があった(福岡藩の場合は、歌舞伎役者を指す「寺中」身分がそれに相当する)。
身分制廃止の法令「解放令」(1871〈明治4〉年8月28日布告)には「穢多非人等」と書かれている。この「等」には、第3の身分を含めるという意味がある。「等」がなければ「穢多」と「非人」以外の被差別身分は廃止されなかったはずだ。この「等」の重要性は上杉聰氏が初めて指摘した。上記の「など」が、そこまで考えて表記されたかどうかはわからない。たぶん怪我の功名だろう。
▼1997(平成9)年
武士(士)と、農民(農)・町人(工・商)という身分制…。さらに農民・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分…。「えた」身分の多くは、農業 を営んで年貢を納めたり…。
※検定をすり抜けたのだが、ここでは論理にほころびがある。なぜなら「えた」身分の多くは年貢まで納めているほどだから“れっきとした農民に違いない”からだ。この文脈では、農民のほかに「えた」身分がいて、「えた」身分の多くは農民―となるので、矛盾している(でしょう?)。まるでメビウスの輪か、自分の尾を食べる蛇みたいな不可解な表現だ。
これは以前の「士農工商」を引きずっていて、職業と身分が混同されていることによる(この点では教科書執筆者の質を疑う)。すでに述べたように、「士農工商」は日本の社会にはあてはまらない。たとえば中国では官僚制は科挙による選抜で能力主義だが、日本では世襲制(長男だけが後を継ぐので、次男以下は養子に行く)という点からすでに違いがある。「士」(士大夫)と「さむらい(侍、武士)」は異なる概念である。
もうひとつ、「~の下」が「~のほか」と変わったのも、現実に即している。実際の差別は人間外・社会外という性格を持っていたので、「~の外」とした方がより適切になる。
▼2001(平成13)年
武士と、百姓・町人という身分制…。百姓・町人のほかに、「えた」や「ひにん」などとよばれる身分…。「えた」身分の多くは、農業を営んで年貢を納めたり…。
※「農民・町人」ではなく「百姓・町人」と表現したことで最後のピースがそろった。最近の教科書は小学校・中学校とも、農民を百姓に書き換えているのであり、毎日新聞校閲を不勉強と評しても過言ではなかろう。「百姓」を「農民」に書き換えるのは時代に逆行している。
この場合、身分としての「百姓」なので、その中には農民(農業従事者)以外の者も含む。たとえば農村部に今も残る造り酒屋などがその典型である。造り酒屋は豪農で、多くは村役人を兼ねていた。庄屋や名主(西日本と東日本で呼称が異なる傾向がある)などは、職業に関係なく百姓身分である。ただ、一般には、殊に頭の固い大人たちは依然として「職業としての百姓(農民=百姓)」にとらわれるに違いない。教師も同じで、教科書が変わっても旧態依然の教え方をしていることが少なくない。そこで一切の誤解のない表現として、次のように改訂することを教科書会社に提案したい。
武士と言わずに武士身分、同様に百姓身分、町人身分、「えた」身分、「ひにん」身分と表現するのである。説明抜きに「身分としての百姓」だとわかるだろう。「えたひにん」というフレーズもこれによって消える。
ついでにふれておくと、これらの身分の根拠は2つある。第1に身分は生まれた時に決まる。つまり父親の身分(公的に登録されている)がそのまま子の身分である。第2に身分の違う者が入り交わることはない。城下町には必ず武士の住むエリアと町人の住むエリアがある。
福岡藩は例外的に、城下町福岡の隣に自治都市の伝統を持つ博多があり、秀吉の法令によって、博多は町人の町で、武士は住まないことになっていた。江戸時代になると自治都市としての性格を失ったが、黒田家もおおむねそれを継承した。したがって、福岡藩で町人とは、城下町福岡と(旧自治都市)博多に住む者を言い、興味深いことに、町人でありながら隣接する郡部に農作業に出向く者さえいたのである。たまたま町人が庄屋に任命されることもある。その場合、当人だけが村に赴いて百姓身分となり、家族は町人身分のままである。「入り交わらない」という厳密性が追求されている例である。
福岡藩が身分をどうとらえていたのかと言うと、実は百姓・町人ともうひとつ浦人がいた。浦人は海岸部の港や島、漁村に住んだ者である。郡奉行と百姓身分、町奉行と町人身分、浦奉行と浦人身分が対応している。この3つがそろった型が典型であり、海岸部がないか、またその住人が少ない藩では浦人身分を置かず、百姓身分に含んだ場合もあった。郡奉行と町奉行は土地と人柄(住人)を支配しているが、浦奉行は人柄のみを支配し、土地ではなく海面を支配した。
武士と百姓・町人・浦人から区別された存在が宗教者(制外の者…別次元の存在で、通常の法が適用されない)、および被差別身分(人外の者)であった。医師が剃髪するのも身分規制の適用を受けないことで、貴人の脈を取ったりできるという便宜があったことによる。
被差別身分は、農村にいて農業に従事し、年貢を納めている場合であっても、百姓身分の集落とは別に集落を形成し、明治以降の部落差別へと受け継がれていくことになる。農業に従事していたことで土地に緊縛され、かえって流動性が阻まれた側面もあったのである。
被差別身分の中にも宗教、芸能との結びつきが見られ、「制外の者」と源流が同じなのではないか、という仮説が成り立つ。旧福岡藩の被差別身分の集落で、安倍晴明の掘った井戸と称するものが2カ所にあったが(この伝承は全国にある)、これなどはその土地、もしくはそこに住む人たちが、何らかの形で陰陽師(占いを職掌とする)に由来を持つのではないか、という推測を可能にする。
皮多が皮田、長吏が町離と表記される場合もある。当て字には違いないが、前者は農業従事、後者は集落が離れている事実が、表記としてにじみ出たものである。
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牧氏はブログに「『百姓=農民』ではない。士農工商と言われても、当時の農業従事者の実態は『貧乏百姓』だった。」と書いていた。「百姓=農民」ではない、はその通りである。前者は身分、後者は職業を示している。ただ、農民を指す百姓という意味も併用されていた。百姓身分の内部に、本百姓(高持ち百姓=年貢を納める)、水吞み百姓(高を持たない、無高の百姓=年貢を納めない)の区別は厳然としてあった。
牧氏の誤りは、実態は「貧乏百姓」、あるいは「貧しい彼ら」と百姓身分全体をひとくくりにしたところにある。農村の住人が一部の豪農と、多くの貧しい農民に分かれるのは当然の話で、その、一部の豪農(村役人層)は、時には戦国時代の国人(土着の武士)が帰農した結果でもあった。福岡藩で言えば、関ヶ原合戦の後、黒田家という“占領軍”がやって来た時に、中世の原田氏、秋月氏、立花氏、宗像氏の家来の中に帰農を選んだ者があった(たとえば筑豊の麻生家、許斐家などは宗像氏の一党だった)。彼らは一定の権威を持って農村に君臨することになる。いくつもの蔵を持ち、宏壮で贅沢な屋敷に住み、私財で新田開発や峠道・用水路の開削、橋の建設などに寄与した者すらあった。私の住む町に隣接して、ひとりの博多商人が莫大な資金を投じて、岩盤をくり抜いて通した地下の用水路が知られている。農村はこれらの有力者を中心にした自治で運営されていて(庄屋の給与は村人から集めた米でまかなわれ、村人は庄屋をリコールすることもできた)、基本的に武士の姿を見かけることはまれであった。
これに対し、支配層に属する武士身分は相対的に貧しく、質素だった。武士道という倫理が貧しさに耐えることを要求したということもあるが、江戸時代の初期から終末期まで給与(米・大豆〈ただし実際は米に換算〉による現物支給…福岡藩の場合)が上がらないのだから、時代の進展と共に貧しくなるのは当然の話である。給与は人ではなく家に付属したから、新人もベテランも給与は変わらない。固定給ということは、仮に田畠の収穫量が増えても農民を益するだけで、年貢には反映しないしくみだった。
従来、社会の下積みで、最貧困層とみられていた被差別身分ですら、大金持ちがいた。その規模は桁違いで、百姓身分の中の豪農をしのぐ者すら珍しくなかった。彼らは知識人で、手広く商売し(多くは皮革産業の独占である)、地域のリーダーだった。この階層から後に部落解放運動の指導者が育っていく。私が最近書いた一文を引用しておこう。身分不相応のふるまいとして、福岡藩で穢多身分の者の実態が次のように指摘された。時代は天保(1830~44年)の頃と考えられている。
・名入りの傘、巻緒の草履を用いている。
・旅行の際、脇指しを帯びている。
・幼少の者に手跡(習字)を学ばせている。
・師匠を村外から1年分の多額の謝礼で招き、行き帰りには乗り物(案駄)を使わせている。
・葬儀には穢多寺(=穢多身分の者を檀家にする寺で、僧侶も穢多身分である)から8、9人の僧を呼び、住持は結構の案駄(ぜいたくな造り)を用い、城下町も乗ったまま通行している。
・「御用」の印の入った提灯を私的に使用している。
(服部英雄ほか『部落解放史の最前線―啓発・教育の現場と研究をつなぐ―』所収、(社)福岡県人権研究所発行)
身分を超えた振る舞いは、しばしばわがままな行為と記録されるが、実は賤民離脱の動き(脱賤化)と見なしうるものであった。身分制はじわじわと足下から崩壊し始めていた。
江戸時代に「御百姓」という言葉が使われたことが知られている。御城、御堀、御門、あるいは御判物(将軍や大名が花押をすえている書類)、御徒(御徒士、御歩行…いずれも「おかち」と読む。武士身分の一階層)など、「御」は御飯、御酒、御菓子のような丁寧語でなく、殿様に関連する意味を隠し持っていた。「御百姓」とは殿様に年貢を納める大事な役割を担っているという誇りを示すものだった。
「百姓」を「差別用語になる可能性がある」とした毎日新聞校閲の理解は根本から誤っている。今回はたまたま牧氏がこぼしたために明らかになったが、メディア関係者の無理解によって、根拠のないまま自主規制されていることが他にもあるかもしれない。「百姓」という表現を告発するものは誰もいないのだから、毎日新聞の自縄自縛に他ならない。そこから「これは小さな『言葉狩り』ではないのか?」と話をふくらませた牧氏も、私には過剰反応に思えた。牧氏はブログを、
<何だか分からない今日の名文句>/言葉狩りは日本の「難病」である
と結んだが、そもそも「百姓」を標的にした「言葉狩り」など存在しないのだから(「言葉狩り」があるのなら教科書に載せるはずもない)、ふわふわと空中を浮遊するように言葉が軽い。
ついでにふれておくと、ある言語学者は「差別用語」という用法を問題にしている。化学用語が「化学」の研究に用いる言葉(術語)だとすれば、差別用語は差別のために使う専門知識という意味を内包してしまうからだ。これを受けて、私(たち)は差別語・差別表現と言い習わす。そもそも言い換えればいいという発想が思考停止で、条件反射のように安易ではないか。ここにも一石を投じておきたい。
* 2022年1月1日 元日の須恵宝満宮
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