調査能力を著しく欠く人名事典執筆者は百害あって一利なし★再掲載

※ 過去に本ブログに投稿した分を再掲載。

「メディアウオッチ100」●132号【かるちゃーひろば】 2012年1月13日

    ―『海を越えた日本人名事典』の場合―

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このブログには私が投稿して、掲載された記事を収録しますが、体裁(表題・見出し・本文)は投稿時のままです。



 『海を越えた日本人名事典』は1985年に日外アソシエーツから刊行された。明治29年(1896)までに欧米諸国に渡航した日本人約1700名を収録したもので、126号でふれた井上良一(よしかず)も取り上げている。ところがかんじんの説明があやしい。「(明治)5年ババト法律学校の教師ホーモに従い法律と心理学を学ぶ。」執筆者は「ババト法律学校」がどこにあるか、考えたことはあるのだろうか。

 事典執筆者の安易な過ち
 明治13年(1880)2月10日付の朝野新聞は青山霊園にある井上の墓標の碑文を紹介した(原漢文)。「(明治)五年〈巴娑土法律校〉教師〈方孟氏〉に従い、法律を学ぶ。かたがた心理学を修む。」朝野新聞には誤植がある。すなわち「娑」は「婆」の誤りなのだ。これを補正して『海を越えた日本人名事典』では「ババト法律学校」と読んだわけだ。

 実は「ハバド」すなわちハーバード・ロースクールであり、「ホーモー」はホームズ、すなわち後に最高裁判事となるオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアを指すのである。弁護士でもあるホームズが心理学を教えなかったのはもちろんである。事典の執筆者は「かたがた(旁)」の解釈を誤っている。

 井上は慶応3年(1867)に福岡藩派遣海外留学生の一員として渡米した。西回りでオランダへ行ったのが赤星研造(24歳)・武谷(たけや)椋山(20歳)、東回りでアメリカへ行ったのが井上良一(16歳)・船越慶次(16歳)・本間英一郎(15歳)、他に私費で青木善平(後に安部忠吉、29歳)が同行し、一行の監督役が平賀義質(42歳)だった。松下直美(20歳)だけはスイスへ留学した。赤星・武谷・松下の3人はパリ万博を見物する機会に恵まれた。

 平賀については磯三郎と義質(よしただ)の名で立項しているが、二つの人名を並べながら同一人物であることに気づいていない。義質の項に「通称=磯三郎」としているのだから、気づかない方が不思議なくらいだ。

 頼りにならない人名事典
 船越は「越前藩留学生」「【出生地】福井」となっている。こうなるともうむちゃくちゃである。青木の項には福岡藩留学生として船越の名を上げているにもかかわらず……。

 松下については、参考文献にその生涯を詳しく解明した大熊浅次郎の論考(『筑紫史談』昭和3~4年連載)を挙げながらどうやら全く読まずに執筆したようだ。「アメリカに渡り……」として、スイス・ローザンヌで物理学を学んだことを書かず、「(留学)後の消息は不明」として、司法省に勤務し(フランス語の能力を買われたもの)、大審院判事を経て、第4代福岡市長(1899~1905年)に就任したことにもふれることはない。

 大審院判事を務めた人物すら把握できない人名事典では実に頼りにならない。

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