執筆者 石井忠・石瀧豊美・河西照勝・後藤瑠美子・野村郁子・福田勉
『福岡を歩く』と『新版 福岡を歩く』からの抄録にあたり、写真・地図は省略した。
▽シーボルトも通った長崎街道の宿場町
宿場町は一本の道筋の両側に商家の町並みが続く。そういう景観を「町立て」という。それ以外のところでは、人家はとぎれていて、松並木の間を旅人は歩いた。香椎の浜男(はまお)の場合は、正規の宿場町に数えられていないが、小早川秀秋の時、唐津街道の青柳(あおやぎ)宿と箱崎宿の間に設けたとされ、片側だけ町立てされていた。これを両側町に対して、特に片側町と言う。浜男では道筋が海岸線に沿っていたので、町の片側が海に面していた。
宿場町には上町(かみまち)・下町(しもまち)・新町などの町名が残っている場合が多い。新町は宿場町が延長されたことを示している。宿場町には御茶屋や町茶屋があるが、これはいわゆる「峠の茶屋」の類ではない。藩が設けた宿泊施設で、御茶屋は藩主の別館であった。箱崎の御茶屋の場合、幕末期にオランダ人カッテンディーケを迎えて、洋食の接待をしたことが知られている。福岡藩では、御茶屋には参勤交代で通行する大名や、長崎奉行、日田郡代といった幕府役人が宿泊し、長崎から江戸へ向かうオランダの使節は町茶屋へ泊まる規定になっていたという。
一般の旅人は旅飯(はたご)屋に泊まる。山家(やまえ)には、薩摩屋とか、小倉屋、長崎屋などの屋号のあったことが知られていて、シーボルトの泊まった薩摩屋は町茶屋、それ以外は旅飯屋である。各地の宿場に、今でもこうした屋号を残している場合がある。
宿場の入口には、クランク状に直角に曲がる道が設けられている。構口(かまえぐち)である。これは乗馬したまま強行突破されないための備え。宿場に入るのに、旅人は必ず構口を通過する。構口には石垣を築いた上に築地塀をめぐらしてあった。軍事的な警戒線でもあった。
福岡藩内には筑前六宿(むしゅく)と筑前二十一宿と呼ばれる、宿場のネットワークが形成されていたが、その他にも、先に述べた浜男だけでなく、糟屋郡箱崎村の原田(はらだ)や、那珂郡井相田村・御笠郡山田村・筒井村の三か村にまたがる雑餉隈(ざっしょのくま)のように、宿場と宿場の中間地点で町立てされているところがあった。これらは二十七宿には数えられていない。
江戸と長崎を結ぶ幹線道路の内、小倉と長崎の間が長崎街道、その内の筑前福岡藩の領内が筑前六宿と呼ばれた。豊前小倉を出た長崎街道は、福岡藩領では、黒崎・木屋瀬(こやのせ)・飯塚・內野を経て冷水(ひやみず)峠を越え、山家・原田(はるだ)から、肥前田代へと入る。
山家宿が開かれたのは慶長一六年(一六一一)で、黒田二四騎(黒田長政を支えた二四人の部将、長政を含めると二五騎)の一人、桐山丹波が慶長七年(一六○二)一二月に御笠郡を支配したことによるという。桐山の家来に志方彦太夫があり、志方は山家から内野へと、徐々に山中の道を整備していった。それを知った藩が事業を引き継ぎ、ついに冷水峠の開通となったとされている。
冷水峠を経て、山家宿を出ると、左右に道が分かれ、それぞれがさらに分岐している。道に迷う旅人のために追分(おいわけ)石が設置されていたが、そこには「右肥前 太宰府/長崎 原田」、「左肥後 久留米/柳川 松崎」と書かれていた。右に道を選んでまっすぐ進めば太宰府天満宮への参詣の道であり、途中で左に折れると、原田宿、その先が長崎へと通じている。また、左にまっすぐ行くと日田街道(甘木を経て豊後国へ)、それを途中で右に折れると薩摩街道で、筑後国から肥後国を経て薩摩国へと通じていた(以上は『福岡歴史探検 ①近世福岡』の近藤典二氏の研究による)。
原田宿と肥前田代宿との間には三国(みくに)峠があった。ここは肥前・筑後二ヶ国と筑前国との境目だったことによる。原田宿からは山家の他、二日市を経て博多へも通じていた。 (石瀧)
〔メモ〕
筑紫野市の原田・筑紫はもとはひとつの村で、原田宿に筑紫神社がある。〝式内社〟筑紫神社は「国号起源の神社」。祭神は五十猛命(いそたけるのみこと)。筑後国風土記逸文(いつぶん)には、荒々しい神が旅人の命を奪う。それで「命を尽くす」から「つくし」の名が起こったという地名説話が語られている。筑紫国は後に筑前国と筑後国に分かれる。戦国武将筑紫氏の故地でもある。
* 2021年10月19日
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