★2021年4月25日~28日 本ブログ掲載の「ゾルゲと益田豊彦」(『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』no.27(日露歴史研究センター事務局、2010年10月8日))の元になった西日本新聞連載である(2008年1月4日~ 20回)。
★サイト「イシタキ人権学研究所」の「石瀧豊美の著作一覧」、「4 451~600 (2006年 1月~2011年 5月)」、「492~512 連載 「曲折の行路」 20回分」から新聞切り抜きの画像をダウンロードできる。
曲折の行路―昭和史と益田豊彦 (19) 2008年2月5日 西日本新聞朝刊
石瀧豊美
直彦の戦後
横浜事件は語らぬままに…
石川達三の小説「風にそよぐ葦」の主人公葦沢悠平は自由主義者で綜合雑誌「新評論」の社長である。新評論は戦時中、軍や特高に左翼としてにらまれ、東條内閣末期の昭和十九年七月、廃業に追い込まれた。
戦後再刊したものの、葦沢は今度は社内の労働組合の批判にさらされたうえ、昭和二十一年十一月、GHQの公職追放指令によって社長の地位を追われる。向きを変える風に翻弄(ほんろう)されながらも、それに耐えるしかない人間の姿が表題となっている。
新評論は中央公論をモデルにし(戦時中の横浜事件では七人が検挙され、二人が獄死した)、葦沢悠平の姿は事実そのままではないとしても、幾分か中央公論社長・嶋中雄作のエピソードが取り取り込まれている。
益田豊彦の弟・直彦は横浜事件で検挙され、終戦直後、執行猶予付き有罪判決で横浜拘置所を出た。その後、私たちは中央公論社に直彦の名を見いだす。
『中央公論社の八十年』によると、益田直彦は二十一年六月入社、第二出版部長に就任した。中央公論編集部長はやはり横浜事件で有罪判決を受け復職した畑中繁雄。他に蠟山政道(副社長、後にお茶の水女子大学学長)、谷川徹三(婦人公論主幹、後に法政大学総長)、林達夫(出版局長、後に評論家)ら、今振り返ると錚々(そうそう)たる人たちが役職を埋めていた。
この時、第一次中央公論社事件と言われる出来事が起きた。以下、『―八十年』からの引用である。
〈二十二年一月、嶋中社長はマッカーサー司令部から、戦時中軍部に協力したという理由で、追放該当者に指定された。軍に協力しなかったために解散を命ぜられたことを、むしろ名誉としている中央公論社としては思いがけぬことだったので、ただちに反証をあげるべく努力した。ところが当時の組合は決議によって、その協力を拒否した。のちにこれは撤回されたが、このことによって社内の対立は激化した。結局二十二年秋から三年春にかけて、畑中繁雄ほか十数名の退社によって終熄を見た〉
八月三十一日、在職一年二カ月程で益田直彦が退社、九月十八日、後を追うように畑中繁雄が退社した。中村智子『横浜事件の人びと』は〈益田は……嶋中雄作社長のGHQによる追放をめぐる第一次中央公論社事件のさい、社内の空気にたえかねてまっさきに退社した人である〉と書いている。
次に直彦の名が出て来るのは三十三年に刊行された『山一証券史』である。本文は千百二十ページ、年表が二百二十六ページ。大冊だ。編集後記は社史編纂(へんさん)室長益田直彦が書いた。直彦は中央公論社から山一証券に移り、調査課長、秘書役を経て、三十一年二月、特設の社史編纂室長に就いていたのである。
直彦は横浜事件について公に語ることがなかった。中村智子の取材に、その理由を「事件関係者が、自分が被害者の主役みたいにしゃしゃり出ているのが性(しょう)に合わないからだ」と答えている。ひけらかさない生き方が兄豊彦とそっくりだ。
昭和六十一年十月十七日死去。享年七十九歳。
『中央公論』昭和14年10月号。尾崎秀実と益田豊彦が参加した「座談会 動乱欧洲の前途」を掲載している
同誌に掲載された益田豊彦の写真
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