★2021年4月25日~28日 本ブログ掲載の「ゾルゲと益田豊彦」(『ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集』no.27(日露歴史研究センター事務局、2010年10月8日))の元になった西日本新聞連載である(2008年1月4日~ 20回)。
★サイト「イシタキ人権学研究所」の「石瀧豊美の著作一覧」、「4 451~600 (2006年 1月~2011年 5月)」、「492~512 連載 「曲折の行路」 20回分」から新聞切り抜きの画像をダウンロードできる。
曲折の行路―昭和史と益田豊彦 (3) 2008年1月7日 西日本新聞朝刊
石瀧豊美
益田家と秋月の乱(下)
逸叟の夢枕に立った静方
熊本の神風連(しんぷうれん)の乱に遅れること三日、明治九(一八七六)年十月二十七日、今村百八郎に率いられた秋月士族二百数十人が決起した(秋月の乱)。まず血祭りに上げられたのが、偵察に向かって捕縛された福岡県警部穂波半太郎だ。穂波は、佐賀の乱の際、大久保利通の部下として奔走し、裏切り者と目されていた。
秋月隊は豊前豊津へと向かった。豊津は旧小倉藩が新たに藩庁を設けた所で、豊津士族の一部とはかねて連携の約束があった。ところが豊津では穏健派が急進派を押さえ、秋月隊を迎え撃つ準備を整えていた。
十月二十九日、小倉歩兵第十四連隊(連隊長乃木希典(まれすけ)少佐)が到着し、豊津士族と合流して秋月隊に攻めかかった。激しい白兵戦となる中、秋月隊は次々に倒れた。この時、十七人が戦死した。
残兵をまとめた秋月隊は城井谷(きいだに)を経て英彦(ひこ)山へと敗走した。小石原を通り郷里の江川谷をめざしたものの、もはや抵抗する力もなく、十月三十一日、栗河内でいったんは解隊を決した。この時、磯淳ら七人が割腹するが、その中には今村隊長の実兄宮崎車之助、実弟宮崎哲之助も含まれている。
今村は再び隊長としてかつがれ、残存兵力をまとめて別行動を取った。江川谷から古処山へ。さらに秋月へ入って敵陣営を襲った。今度は山を越えて三箇山(さんがやま)(朝倉郡筑前町)へ、そして最終的に解散したのが十一月三日である。最後に残った十一人は思い思いに散っていった。益田逸叟(いっそう)は最後まで今村百八郎を支えた。
逸叟の気がかりは、佐賀へ向かったまま消息の途絶えた、長男静方(よしみち)の行方である。危険をかえりみず佐賀地方を歩き回った。ある日、逸叟は背振山の北麓、早良郡椎原(しいば)村(福岡市早良区)の炭小屋に隠れ、うとうとしていた。枕元で「父上」と呼ぶ声がする。静方はにこりと笑い、「取調べでは、父上は無関係と言い張りました」と言う。
「おお、静方か……」と呼びかけると、姿は消えた。(もしや)と悟った逸叟は博多蔵本町へ急いだ。ここには、静方の姉が嫁いだ塩問屋長浜家がある。
十二月三日の夜、逸叟は静まりかえった長浜家の戸をたたいた。室内は線香の香りが立ちこめていた。この日、秋月隊の領袖として今村百八郎と益田静方が処刑され、遺骸を納めた二つの棺が長浜家に運び込まれていたのだ。逸叟は自首する決心をした。
翌る明治十年の夏。逸叟は懲役三年の刑に服し、静方は刑死してすでに亡い。秋月で益田家の留守を守るのは、静方の姉・雪と数え年十二歳の祐之である。雪は〈事情あって生後一年そこそこの父を連れ婚家を去って実家に帰〉ったと、祐之の子・豊彦が書いている。
主のない益田家に旅商人姿の男が訪ねてきた。東京で世話になったので、静方の墓参をしたい、と言う。雪が墓地へと導くと、あたりに人気のないのを見計らい、旅商人は正体を明かした。「実は私は東京の大橋陶庵先生のもとで、益田君と同門の高橋武です。同志を代表して墓参に参りました」。後、祐之はこれらの同志の好意により学問を積む機会に恵まれる。祐之を引き取って世話をしたのが、山口県令関口隆吉であった。
県道の崖下にある益田静方の墓(右)。右側面に刑死した日「明治九年十二月三日」が書かれている =朝倉市秋月
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