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明治大正の部落のこどもたち
思わず横道に入って、長々と衆議院議員田原春次の少年時代を取り上げた。田原は旧制中学校の課程5年を終えるのに6年を費やし、その間に4回転校し、2つの県立中学(福岡県)、2つの私立中学(福岡県・長崎県)に在籍した。長崎県の東山学院には2度の在籍を繰り返した。おそらく級友というものには恵まれなかっただろう。
被差別部落に生まれ、父親を早く亡くし、学資をアルバイトで稼ぎ出すなど、苦学生としても知られていた。小倉中学時代のエピソード―火の用心の夜廻りに新聞配達、となると、夜も朝も働き詰めということになる。学資だけでなく寮費か下宿代、さらには教科書代・食事代も必要だ。故郷に残る母や弟への仕送りも心配していたことだろう。いろいろと想像をめぐらすだけでも、希有なすさまじい少年期を過ごしたと言える。就学をあきらめたこともあったに違いない。幼くして背負わされた労苦のかなりの部分が、部落出身ゆえにもたらされたものであったことは間違いあるまい。
私は被差別部落出身のこども達に関心を持ち続け、次のような文章を発表してきた。
・「法慌(ほうけ)先生のこと」「ある少女の事故死」「明治・大正の部落の子供たち」『明るい社会』38~40号、福岡県教育委員会、1993年11月~94年2月。石瀧『解死人(げしにん)の風景―差別があたりまえだったころ―』イシタキ人権学研究所、2003年に収録。
・「お茶くみ当番」『かがやき』同和教育副読本/小学校高学年用、福岡県教育委員会、1997年3月 *ただし、無署名。
・〈『日本少年』掲載の作文「新平民」〉『リベラシオン』123号、福岡県人権研究所、2006年9月
・「被差別部落の少女・お栄―一九〇五年六月、堅粕村松園の踏切事故―」『リベラシオン』126号、2007年6月 *「ある少女の事故死」と同じテーマをより詳細に扱う。
明治38年6月、亡き母の法要を催す父に代わって踏切番を務めていた、数えで11歳の旗振りの少女お栄が轢死した。隣接する踏切に向かって線路を歩く人物に危険を知らせようとして、背後への注意がおろそかになり、自らが犠牲になったのだ。それを報じた福岡日日新聞の記事「理想の死」は若き日の菊竹六鼓が書いた。六鼓が田原春次に手を差し伸べたことはすでに見ている(第43回)。六鼓は職務に殉じた一少女―記事では部落出身とはしていないが、同時代の読者にはわかっただろう―の死を論じて言う。日露戦争の英雄、広瀬中佐・東郷大将を出さなかったことは福岡県民の恥ではない。「可憐なる、勇敢なる一少女」を持ったことは福岡県民の誇りである―。
この記事は反響を呼び起こして、各地から香華料が寄せられた。被差別部落かどうかは関係なく、一種の社会現象となったのである。しかしこれは六鼓という人を得ての珍しい出来事だったのだ。
雑誌『日本少年』の作文コンクール
大正2年9月8日の福岡日日新聞には被差別部落のルポが掲載された。記者はあてもなく題材を求めて、興味本位で部落に足を踏み入れた。当初の意図が偏見にもとづくことは疑いない。
記者は暗くなった宵闇の中、狭い家が次から次と並ぶ路地を歩いて観察した。
「私は部落の小供や老人が、よく働いて居るのに、すっかり感心して仕舞ったのであります。…七ツ八ツの小供までが、お婆さんや姉さんの傍に坐って働いて居ますので、遊んで居る小供なぞは見当りませんでした。」
帰り道、記者は感想をもらす。「世の常の娘小供ならば、お芝居や活動をねだる年輩であります。私は帰る途中、こんな可愛い小さな職人を、一晩世界館に集めて、活動写真をみせてやったら、どんなにか喜ぶことだろうと思ったのであります。」
実際の観察が偏見をきれいに拭い去ったのである。私は日頃記録に残されることのない、何気ない日常を切り取った点で、この記事を評価している。
約400字の「新平民」と題する作文は『日本少年』明治42年8月号に、読者文芸の入選作として掲載された。ある事情から、私はこの掲載誌を20年以上探し求めた。
「僕」は中学2年、転校生相良とは大の仲良しだが、「彼は新平民である」という噂が立つ。「彼に触らぬよう、話はおろか見向もせぬ」と、学級で相良は孤立を深めていく。そして、「挙動言語がどうやら、噂通りらしい。僕もそう思えば、寝覚めが悪くなって来たようだ」と結ばれる。
相良は「隅っこの方で講義録を拡げている」が、実生活の中で高等小学校卒業後、農業に従事しながら講義録を読んでいるのは、16歳の作者自身だった。想像の教室の中に、想像の同級生を描いたことに、私は早熟を思わせる作者の、むしろ屈折した心情を読み取った。
応募総数は5820点。その2等に選ばれた作品である。選評は「世道未だ衰えず、人心未だ腐敗せずといふべし。しかも今日では、所謂新平民が大成功を遂げて、人々に尊敬されているのもある。文章巧妙を極めたり。」で、この場合の世道・人心の用い方が私には不可解である。付け加えると、大成功を遂げて尊敬されているからと言って、部落問題が
解決されたことにはならない。しかしこの発想は現在でも無自覚に表明されることがある。
この作品を入選作とし、かつ選評に部落出身者を差別的に指し示す「新平民」という言葉を用いた選者、それを掲載した編集者は部落差別を肯定する側に立つ。読者の中にも部落出身者がいるかもしれないという想像力も、教育に携わる者としての人権に対する感度も不足していたが、それも当時の社会の一つの現実なのであった。
学歴社会となり、才能を伸ばすチャンスは等しく与えられていても、その競争は平等なものではなかった。田原春次が少年期に直面したものが何だったのか、その社会的背景がこれであった。造型された相良少年に、中学時代の田原春次を重ねても、あながち見当違いとは言えない。 (続く)
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