天馬行空録 忘れられた坂本龍馬伝(編・解説 石瀧豊美)
大正時代に明かされていた、龍馬暗殺の真犯人
埋もれていた鏡川・岩崎英重の業績
大正時代に明かされていた、龍馬暗殺の真犯人
埋もれていた鏡川・岩崎英重の業績
*「多年誤り伝えられたる坂本龍馬の刺客」の後、一回だけ「元治史譚 寒紅梅」をはさみ、「天馬行空録 坂本龍馬伝」へと続く。
天馬行空録 坂本龍馬伝 岩崎鏡川
『日本一』第四巻第三号(大正七年三月)~第四巻第八号(大正七年八月)
⑦『日本一』第四巻第三号(大正七年三月)
天馬行空録 坂本龍馬伝
破題
曾て土方秦山伯と語った中に、伯はこういう事をいわれた。「予、弱冠郷関を脱し、或いは江戸に或いは京師に、或いは長州に或いは宰府に、多く天下の俊髦(しゅんぼう)に遭遇したが、就中(なかんずく)英気溌剌、言行常に人の意表に出るもの三人を見た。曰く、薩の西郷隆盛、長の高杉春風、而(しか)して我が坂本直柔(なおなり)である。この三人者(ママ)は所謂(いわゆる)天馬(てんば)空(くう)を行くものであって、何人も他の接踵(せっしょう)を許さない。真に天授の材である。爾余の豪傑、多くは是、克己・修養・境遇の感化の養である」と。我、この語を聞きて、真に知己の知言と感ずるものである。
彼、既に龍馬を以て通称とするものである。天馬行空、名実相讐(かな)うもの、亦奇といわなければならない。案ずるに、周礼(しゅらい)に「凡そ馬八尺以上、これを龍と為す」、三国志に「諸葛孔明、臥龍也」とある。蓋(けだ)し藉(か)りて人材を称するものである。天馬とは何ぞ。史話大家伝に「大宛多二善馬一馬汗レ血其先天馬子也」とある、其の注にこういう事が見えて居る。「大宛国(今の露領フェルガ((フェルガナヵ))州)に高山がある。其の上に天馬が居ったが、容易に獲られなかった。よって五色の母馬を取って其の下に置いた。与(とも)に交わって駒を生んだ。雋蹄(しゅんてい)であって血を汗にした。因りて号して天馬の子といった」とある。亡友坂崎紫瀾が嘗て絢爛の筆を揮って龍馬伝を草するに当たり、『汗血千里駒(せんりのこま)』と題したのも全くこの故であろうと思われる。我、亦今、秦山伯の言によって天馬行空録を作る。
数ある龍馬伝の中(うち)で最も多く世に行われたものは『汗血千里駒』であった。この書は版権がなかった為に至る所で飜刻せられた。紫瀾が蒐集したもののみでも、表紙の異なったものが十二通りもあった。其の発行部数は驚くべきものであったろうと思われる。龍馬の名を今日の如く人口に膾炙(かいしゃ)せしむるに至ったのは、この書の与(あずか)って多きに居ることと思われる。然れどもこの書は、つとめて面白く読ませんが為に、演義綺語体にものしたるによって、仮実(かじつ)混淆、真偽相半ばして居る。其の他、弘松宣枝氏の『坂本龍馬』、土田淡堂氏の漢文に書ける『阪(ママ)本龍馬』、服部北溟氏の『幕末英傑坂本龍馬』、千頭(ちかみ)清臣(きよおみ)氏の『阪(ママ)本龍馬』等があるが、いずれも一長一短があって間々千里駒の誤謬を承けて居るのが認めらるる。著者は比較的多くの史料を渉猟して、成るべく正確なる龍馬伝を起こしたいと思う。其の誤謬・脱漏等に就いては一(いつ)に大方読者の批正を煩わさなければならない。これを破題とする。
一
或る冬の日、或る所で、或る少女の筑前琵琶を弾ずるを聞いた。齢(とし)を聞けば十五歳だとのことであった。艶やかな黒髪を御下げにして、中程を紅色のリボンで巾広に絞り、稍下膨(しもぶく)れの顔に薄化粧をしたるが、縹色(はなだいろ)の水干様(すいかんよう)の被布(ひふ)を着て堆朱(たいしゅ)の見台に向かったのを見た時は、昔竹の節から出た少女(おとめ)はこんなものであったろうと、古い記憶が新しい想像を蘇らした。曲は明智左馬之助の湖水渡りであった。
「水や空、空や水、眼の限り一碧(いっぺき)の、波を蹴立つる大鹿毛に、緋縅(ひおどし)著(き)たる左馬の助、一際目に立つ武者振りに、無双の名人永徳が、丹精こめて画きたる、黒画(くろえ)の龍の陣羽織、比叡山(ひえやま)颪(おろし)に飜し……」
珠玉を銀盤の上に転ばす様な涼しい声が、冴えたる撥音(ばちおと)と共に朱唇(しゅしん)を顫(ふる)わして、微妙なる音波を鼓膜に伝うる時、心も魂も誘って何処かへ持って行かるる様な心地がして、其所には鏡の如く澄み渡りたる鳰(にお)の海面(うなつら)に、白波(はくは)を乱して乗り切り行く左馬之助光俊の姿が、眼前に髣髴として見えた。
よしや桀狗(けっく)堯(ぎょう)に吠ゆるの誹(そし)りありとはいえ、左馬之助光俊は明智家宗徒(むねと)の士中に最も武士らしき武士であった。精忠凛然、諫めて用いられず、用いられずして恨みず、終に其の仕うる所に殉じたる大節は長く後世をして渇仰の中心たらしむるものがある。
由来鶴は松樹(しょうじゅ)に、鶯は梅花に止まらせたい。俊傑の祖先は名将としたいのは人情である。『汗血千里駒』によって伝えられたる如く、龍馬の祖先がこの光俊の一類であったならば、まことに相応(ふさわ)しいことであるが、この連絡は直ちに裏切られた。
龍馬を以て光俊が一類の後裔となすのは、桔梗の紋所から思いついた紫瀾子(しらんし)の附会であった。坂本家譜による時は、「先祖坂本太郎五郎、生国山城国郡村未詳、弓戦ノ難ヲ避ケテ長岡郡才谷(さいだに)村ニ来住ス(中略)嫡男彦三郎、元亀二年出生、妻ハ須藤加賀守娘也」とある。天正十六年江州坂本落城の際、遁れて姓を坂本と改めたという光俊の一類に、元亀二年出生の男子のあるべき理(わけ)はないのである。家譜には「伝云(つたえていう)、紀武内(きたけのうち)之孫也。但連枝繁栄、諸国ニ住スト云」とあるが、精確なることは勿論分明しない。
兎に角に土佐国長岡郡才谷村という所に居住して居った土豪の子孫には相違ないのである。前の太郎五郎の孫に八兵衛、名は守之というものがあった。生来貨殖の道に長じて居ったので、寛元年間に分家して高知城下の本町三丁目に出で、商估(しょうこ)を業として酒造業を営み才谷屋と号した。其の子に八郎兵衛正禎(まさよし)というものがあって、文字の才もあり、町内の年寄役(庄屋部下の胥吏(しょり))を勤め、其の子八郎兵衛直益に至った。
直益の長男、通称は兼助、後に八平と改む。名は直海(なおうみ)。幼より覇気があって父祖の業を屑(いさぎよ)しとせず、家を弟の八郎兵衛直清に譲って、明和八年五月(或いはいう七年)自ら郷士の株を購い、始めて坂本氏を称し、本丁(上町)一丁目に分家し、天明四年閏正月献金の廉によって三人扶持を下され、郷士御用人(軽格)というに召し出された。この人は藩主の参勤交替の節の人夫料銀取立方や、所々の代官の下役や、二の丸の奥錠前役やを勤め、精励懈(おこた)りなかったので、本家より与えられたる百九十七石の田地の外に十石四斗の公禄を受け、文化九年二月、七十四歳にて病死した。
公私の禄米二百石は高知藩中でもまず中流以上の武士の禄高であった。従って坂本の家は余程富んで居った。其の家屋の如きも、間口十間、奥行き二十余間の立派なものであって、床下の地面には木炭を一面に敷き詰め、庭園なども頗る見事なものであったと伝えられて居る。他日、龍馬が風雲の志を懐(いだ)いて四方に漂遊し、毫も腰纒(ようてん)に窘窮(きんきゅう)する所がなかったのは、かかる経済上の保障があったからである。(坂本家譜、同先祖書、同系図)
二 揺籃 ―父母兄姉―
直海の子に八蔵直澄があった。男子がなかったので同格の山本覚右衛門の次男、常八郎というものを養子となし、其の女(むすめ)お幸(こう)というものに配偶した。山本氏ももと宮地家より養子に来たものであって、土佐郡潮江村という所に住し、相当の家柄と富とを有して居ったものである。
常八郎、後に長兵衛と改め、また八平と革めた。名は直足(なおたり)。躯幹長大なるも性謹厚、書をよくし、また和歌に巧みに、武芸に弓術と槍術と共に堂に入って居った。妻幸女、養父直海の女と称するも、実は井上龍蔵、名は某の女であって、龍蔵は南海の碩学谷重遠(しげとお)の高足で、国学に深く和歌を善くしたものである。されば庭訓(ていきん)空しからず、幸女も資性貞婉、子を教ゆるに義方のあったものである。弘化三年八月十日、享年四十九歳で夫に先立って歿し、直足は安政二年十二月四日、享年五十九歳を以て歿した。これ実に龍馬の父母である。
今少しく龍馬の同根に就いて数言を費やしたい。兄権平(ごんぺい)、初めの名は左吉、名は直方。資性温厚の長者であって、父の後を継いで郷士となり、勤恪(きんかく)家名を墜とさず、明治四年七月八日に病死した。長姉某、安芸郡安田村の人・高松順蔵というに嫁し、一子直(ただし)を生んだ。直は始め高松太郎、また変名して小野淳輔(あつすけ)など称し、年少より龍馬の手許に成長し、海援隊にあって国事に奔走したが、龍馬の死後、明治四年八月二十日、特に朝旨によって龍馬の後を襲(つ)いだ。
次姉某は城下築屋敷(つきやしき)の柴田某に嫁して居ったが、人の間構(かんこう)する所となって生家に帰さると、やがて貞女二夫に見(まみ)えざる旨を遺書して自尽して死んだ。志気勁烈、龍馬の姉たるに愧(は)じざる女丈夫であった。
三姉乙女(おとめ)子(こ)、嫁して医師岡上樹庵というものの妻となり、一男を儲けたが、故あってこれも離別となり、明治十二年八月三十一日、四十六歳にて生家に歿した。この女は身躯豊大、人よびて「坂本のお仁王さま」と称し、また「龍馬よりも強し」といい、「女装せる男子」ともいった。龍馬が逆旅(げきりょ)中に度々寄せたる家信中にも、「お仁王様へ」、「天下第一の大荒(あら)くれもの」などと彼女に冠したが見ゆる。性剛毅にして朴実、真に男勝りの女であった。其の体格の雄偉なりし一例としては、こういう話柄が残っている。龍馬の身長は五尺八寸にも及ぶ大兵(だいひょう)であったが、一夕過ちて女子((乙女))子の衣を着け、知らずして鏡川の納涼場に赴いて居ったが、傍人に気付けられて、始めてこれを知ったとのことである。この女、平生好んで『三国志』『八犬伝』『太閤記』などの稗史(はいし)野乗(やじょう)を読み、記憶力人に勝れて、寓目する所悉くこれを諳んじ、隣家の児童などを集めて活溌に其の大梗を説き聞かすを、此の上なき楽しみとして居った。時としては奥庭に下りたち、龍馬の面小手を着けて近所の若者等と剣を撃つ事もあった。特に月あかき夜など、唯一人鷲尾山(城下の西方に在る深山)に登りて短銃を放ち、其の音の轟々として谺に響くを聞いて、「これ程気味よき事はない」と喜んだというにても、其の頗る風変わりの婦人であった事が想像せられる。其の家に在るや、龍馬を愛撫して倦まず、頗る其の性質の陶冶に腐心した。龍馬も亦幼よりこれを慕うと共に、無二の良友の如く其の言に聞いた。長ずるに及びて姉弟相愛の情は益々厚く、愈々(いよいよ)濃(こま)やかに、乙女子家に在って龍馬を激励すれば、龍馬は外に在って乙女子を慰藉した。彼女、一たびは一剣藩を脱して天下に周遊せんとするの志をも龍馬に告げたが、龍馬はこれを諫止した。惜しむらくは今龍馬の家信のみあって、彼女の返信が伝わらぬが、其の尋常の婦人でなかった事は、龍馬の家信を通じて明らかに窺う事が出来る。(坂本家譜、坂崎紫瀾遺稿)
三 揺籃 ―生誕に就いての奇話―
寧馨児(ねいけいじ)龍馬は母幸女の三十八歳の時の乙子(おとご)であった。天保六年乙未(きのとひつじ)十一月十五日を以て其の家に生まれ、慶応三年十一月十五日京都の客寓に刺客の凶刃に斃れた。生死共に其の月日を同じゅうせること、一奇と云わなければならない。
奇はこれに止まらない。幸女のまさに分娩せんとするや、蛟龍火を吐いておのれの胎内に入るを夢み、驚き覚めて俄に虫気(むしけ)つきて龍馬を産んだ。父はこれを易者に筮(ぜい)せしめたるに、「蛟龍昇天して火焔母胎に入るは奇瑞である。此の児必ず晩成して大名を天下に挙ぐるものであろう」と云った。よりて父はこれに龍馬と名付けたとの事である。更に奇なるは、龍馬は生まれながらにして顔面に数点の黒子(ほくろ)があって、背には獣の如く鬖々(さんさん)一塊の怪毛があった。されば龍馬は生長の後も肌を見らるることを嫌って、人と混浴することを避けたとのことである。或いはいう、幸女日頃猫を愛し、懐胎中もこれを懐きて臥せるより、自(おの)ずから胎児に感染したものであると。昔者(むかし)多聞天の夢想によって楠公が生誕し、豊太閤は日輪母胎に入ると夢みて懐胎せられたと伝えられ、重耳(ちょうじ)は生まれながらにして脅幹(きょうかん)一骨、劉李は左の股に七十二の黒子があったと伝えられて居る。由来英傑の産まるるや、奇瑞は殆どこれに附随して居る。理外果たして理ありや。われはこれを彼蒼氏(ひそうし)に問わんとするものである。(瑞山会文書、千頭清臣著龍馬伝、坂崎紫瀾遺稿)
四 揺籃 ―呆児―
龍馬、始めの名は直騰(なおはる)、後に直柔(なおなり)と改めた。藩国を脱するに及びて、才谷梅太郎・高坂龍次郎、または戯れに取巻(とりまき)抜六(ぬけろく)など称した事が、其の私信中に見えて居る。幼少の頃は頗る遅鈍であって暗愚なるが如く、居常寡黙、十歳を過ぐるも夜溺(よばれ)(寝小便の方言)の癖止まず、隣人称して洟垂(はなたれ)(痴児の意)と呼んだ。十二歳の頃、土佐郡小高坂(こだかさ)村なる志和某(或いはいう楠山某)の学舎に入ったが、業少しも進まず、通学の途次も学友に揶揄せられて泣いて家に帰るを常としたとの事である。然るに故佐佐木高行侯の嘗て語った内に、「龍馬幼少の頃である。侯は小栗謙吉という看((観))相をよくする儒者に出会った。彼のいう様には、僕近日坂本の忰龍馬という小わっぱを見たが、其の骨相非凡、他日必ず大名を天下になすものであるといった」とある。此の頃の事であるか否やは分からぬが、馬鹿も所謂普通の痴呆でなくて、何処かに異なった所があった事は察せらるる。
* * *
一童子は血相変えて立ち上がった。「洟垂れが何をいうか」「この夜溺垂れ奴(め)」がと。見ればはや小刀(ちいさがたな)を抜き離して居る。罵られた童子はニヤリと打ち笑みて少しも驚かず、文庫(ふばこ)の蓋を取って白刃に向かった。学友は周章して立ち塞がり、双方を抱き止めた。切りかけた童子は堀内某という驕児、罵られたのは勿論当年の夜溺垂れ龍馬であった。師の志和某も飛んで出て来る。妻女も馳せつけた。諸友はこれが黒白(こくびゃく)を師に訴えた。素より曲は堀内某に在るので、直ちにこれを退学せしめたが、龍馬の父八平は、かかることよりして終に過ちを醸してはならぬと、龍馬をも退学せしめた。これよりして彼は学業を廃し、専ら武伎を講ずるに至った。後年彼は自ら人に語って、「僕幼にして学を廃し、今に至ってこれを悔ゆ」と屡々いったそうであるが、彼が句を摘み、章を拈(ひね)って、文字葛藤の中(うち)に出没頭して居ったならば、到底かかる人物の大を成さなかったかも知れぬ。彼は由来活眼を以て活書を読むもの、彼に取っては文学畢竟彫虫(ちょうちゅう)の末枝であった。
かくて龍馬は其の家と程遠からぬ築屋敷(つきやしき)という所に道場を構えたる、剣客日根野辨治の門に入った。この日根野は御留守居組というに班し、士格中のものであったが、もと軽格より養子に来たものなるによって、其の門弟中には龍馬等と同じく軽格(士格・軽格の別の事は後にいうこととする)の子弟が多かった。剣術は小栗流で藩の師範家なる麻田勘七の高弟で、頗る上手であった。日根野はいと鄭寧に龍馬を教導した。然る内に龍馬は嶄然(ざんぜん)其の頭角を現し、肉肥え骨逞しく、其の為人(ひととなり)も一変し、卓磊(たくらく)不羈(ふき)、区々の小節に拘わらざる好少年となった。(千頭清臣著坂本龍馬伝、佐佐木高行談話、瑞山会文書)
五 揺籃 ―天狗の正体―
今日、幾日照り続きたる、空蒸しの呼吸(いき)も詰まりそうな昼過ぎから、煤色の雲が早瀬をなし、筆山の巓(みね)を掠(かす)めて三谷山の方に流るる。睫毛(まつげ)の尖端(さき)がピカリと光ったと思うと、耳を劈(つんざ)いてはたた神が鳴り行く。ソレ驟雨(にわかあめ)! と、矢切に干したる洗濯(すすぎ)物を取り入るる間もなく、馬背(ばはい)を分くる様な大雨は瓦を叩いて戞々(かつかつ)たる響きをなし、青桐を打ち芭蕉を搏(う)って婆娑(ばさ)の音をなし、樋に溢れ溝板を浮かし、土を洗い砂を流して鏡川に注ぐ。浄玻璃(じょうはり)の様であった鏡川は、見るが内に濁流滔々、物凄き迄に轟々として流れ行く。折しく柄(え)漏りの雫を片手に打ち払いながら、川沿いの堤を上り来たりしは日根野辨治であった。これも傘の柄を双手にしっかり握り、雨を衝いて、袴の股立ち高く来かかりたる少年に礑(はた)と出会った。「おう坂本、この大雨に何処へ行かるるぞ」と問うた。龍馬は却(しりぞ)いて不審気に「今日も何時(いつ)もの稽古場へ水練に参る途中で御座る」と答えた。「止みなん、止みなん。この大雨にては詮なかろうぞ。俺と一緒に帰ろうぞ」といった。龍馬はカラカラと打ち笑いて、「所詮水泳の稽古で御座る。濡るるは素より覚悟の前。水泳に晴雨の区別が御座ろうや」と後をも顧みずに其の方に馳せて行った。日根野はこれを見送って、其の剛情不敵の魂に舌を捲いたとの事である。これに付いて思い起こさるるは、関西の快男児桜井一久のことである。彼嘗て福本日南・中原鐵蕉等と司法省の法律学校に学んだ。帰校の途次、偶(たまたま)驟雨(しゅうう)に出会った。「法華駆け込む阿弥陀堂」、街上の男女は皆、踵(きびす)を宙にして馳せた。日南後(おく)れて、一久が蝦蟆の如く雨中を闊歩するに追い付いた。「オイ一久、奔らぬか」と云えば、彼は前方を指して「ウム、向こうも降って居るぞ」と。畸人の奇行符を合するが如きも、亦一奇である。
いつの頃よりか、城下の廓外なる潮江村に怪しき行者が現れた。加持祈祷に仮托(かこつ)けて愚夫愚婦を欺くに、亡者といわる迷信者のはかなさ、我も我もと頼み来るものが多かった。行者は益々図に乗って屋根の上に天狗台というものを架し、この台へは毎夜大天狗・小天狗共降り来たって神語を授け給うなりと云い触らさしめた。この事、城下一般の評判となって歴々の士分さえこれに帰依するものあり、特に藩主の連枝某はこれを信仰することいと深く、一夜行者に誘われて天狗台に上り神語を授かってより、家事万端迄も其の神語によって判断するに至った。この連枝の扈従(こしょう)にて公文左源太というもの、深くこれを憂い、屡諫むれども、迷信に捉われたる連枝はこれに耳を仮さなかった。龍馬は一日、公文を訪ぬると、彼は長嘆してこれを龍馬に謀った。龍馬は聞くと共に大口開けて打ち笑い、「こは面白きことを承るもの哉。われにしかじかの策あり」と、諜(しめ)し合わせて去った。
翌日、公文は幣物を厚うしてかの行者の許(もと)を訪ね、「近頃勿体なき願い事なれども、拙者の甥に坂本龍馬と申すもの、予て信神(しんじん)のもので御座るが、一言なりとも御台に上りて神語を授かりたいとの生涯の願い、何卒御許し給わりたい」と、尤もらしく申し込んだ。行者は平生己を信ずる連枝の家臣の縁類のものといい、またよき鳥が引っ掛かったと心中に微笑み、疑う気色もなくこれを承諾した。さて其の夜となると、龍馬は麻上下を折り目高に著(き)なして、また数多の進物に酒肴を添えて行者の宅に赴いた。行者は快くこれを導いて台の下に至り、まず台に上り祈願して居る様子であったが、軈(やが)て下り来たり、龍馬に向かって「去来(いざ)、台上に神語を授けられよ。神の降り給うと見る時は、頭を下げ伏し居給え。努々(ゆめゆめ)身動きし給うな。身動きしなば神罰忽ち其の身に及ぶべし」と痛く戒め、且つ威して、龍馬を台上に伴い行き、自分は再び台下に立ち去った。龍馬は飽く迄も愚夫の体をなして、可笑(おかしさ)を怺(こら)え、神妙にして祭壇の下に跪き、頭をば床板につけて息を殺し、気を配り、今か今かと待って居った。夜更くるままに万籟(ばんらい)沈んで、傍らを流るる鏡川の水音のみ、いと物凄き折柄、劉喨(りゅうりょう)たる笙の音(ね)幽かに聞こえて、皮靴の軋る響きして、台の上に来るものがある。今迄跪いて居った龍馬は俄然(がば)と起き上がり、一躍して天狗の胸倉を捉え、鉄拳固めて二ツ三ツ打ち懲らせば、天狗は台より転がり落ちて、行方知れずになった。これよりして、潮江村の天狗の噂は火の消えたる様に礑(はた)と止んだとの事である。(坂崎紫瀾文書、千頭清臣著坂本龍馬伝)
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